代表プロフィール
- 住宅ローンアドバイスの専門家、鴨藤FP事務所代表の鴨藤政弘(かもとう まさひろ)です。
1965年生まれ、浜松市で生まれ、アソカ学園城北幼稚園〜城北小学校〜高台中学校〜浜松西高等学校と、高校まで浜松で育ちました。
家族は妻と長男27歳、長女26歳そして愛犬10歳が1匹います。
このページでは、私がなぜ住宅ローンの専門家としてアドバイスを行なっているのか、私の生い立ちも交えながらご紹介させて頂きたいと思います。
優等生だった中学時代〜高校に進学するまで
中学校の時は、勉強はできる方でした。
通信簿では3はもらったことがなく、中間、期末試験でも学年トップクラス。
進学は市内でトップの北高ではなく西高に進学します。
正直「西高に行けば自分はトップになれる」と思っていましたが・・・
現実はそんなに甘くありませんでした。
高校では勉強ができず暗いスタートに・・・
なんと、高校1年生最初の国語のテストで学年ブービーを取ってしまったのです。
暗い高校生活の始まりでした。
部活は軟式テニス部に所属し、副部長で静岡県ベスト16になったのですが、その部活を言い訳にして、勉強は、できませんでした。
授業の時に、席順がテストの点数が低い順に前から並んでいくのですが、私は前から2番目。先生には「鴨藤、赤点だけは取るな」と言われるほどでした。
部活も終わった頃、本格的に受験勉強を始めるのですが、模試での第一志望の判定は最後までD判定。偏差値を見ても遠く及びません。
しかし・・・
とある作戦を立てることで、この状況から見事に現役合格を果たすことができました。
その作戦とはどのようなものだったかというと・・・
崖っぷちから第一志望に合格した作戦とは?
『勉強する教科を絞り、かつマイナーな教科を選択する』
というものでした。
私は立命館大学経済学部を志望していたのですが、私立なので文系3教科が試験科目になります。
そこで、その科目以外を捨て、試験科目のみに集中するようにしました。
そして、社会が選択科目だったのですが私が選択したのは日本史でも世界史でもなく『地理』です。
なぜなら、志望していた大学には日本における地図の権威の教授がいて、問題が難しく特徴的だったからです。
その特徴を踏まえた上で対策を練り、集中的に勉強をすれば勝機があると考えました。
そして、先生に地理の問題の傾向を教えてもらいながら試験に臨みました。
第一志望の大学に合格し、成功の秘訣を学ぶ
その結果、見事に第一志望の立命館大学経済学部に合格をすることができたのです。
自分の実力としてはそこまで高くなかったと思いますが、教科を絞り選択と集中をすることで成功できたのです。
この経験は、今の仕事にも活きています。
他の人がやっていない分野に絞り、その分野に特化して深堀りする。そして、実践と行動によって実績を積み自分だけの強みを作り出す。
私は今、これを住宅ローンという分野で行なっていますが、これが成功の秘訣だと考えています。
地元静岡に戻り銀行に就職
立命館大学経済学部を卒業した後は、地元静岡に戻り地方銀行に就職しました。
その銀行は当時静岡県で4番目の大きさで、規模的には小さく知名度もあまりありませんでした。
最初は沼津の支店に配属され、預金集めを主に担当することになります。
しかし、銀行の知名度が低いために名前を言ってもわかってもらえず、新規顧客を獲得する為に飛び込み営業をすることも多々ありました。
そこで飛び込み営業をすることにも慣れ、定期預金の獲得金額でエリアNo.1の実績を残すこともできました。
東京支店に異動し、融資と不動産を学ぶ
その後、東京支店に異動することになりました。
そこでは、主に融資を担当することになったのですが、相手は上場企業や大手の財務担当です。
必然的に高いレベルの知識を持った方々になるので、対等に渡り合うには相当な知識量が必要になります。日経新聞の内容を読み込み理解することは当然で、それ以外に担当者の興味を引く有益な情報を提供することが鍵でした。
東京支店ではこういった環境に揉まれ、融資について多くの知識とスキルを身につけることができました。
企業融資(プロパー)に続いて不動産融資も担当
土地を仕入れてマンションを開発する業者の担当になったのですが、ちょうど自分の家を買おうと思っていた時期でもあり、不動産についてはかなり勉強をしました。
その甲斐あって、東京支店で不動産といえば鴨藤というポジションを得ることができました。東京支店では、相手にする企業の規模も大きく、何十億円というお金を動かすことも多々ありました。
そして、東京支店で融資と不動産に詳しくなった後、浜松支店に異動になったのです。
浜松に戻るも振るわず・・・
東京支店で活躍をしたことで、浜松に戻ってきた時に私は周りからは期待をされる存在になっていました。
東京で活躍をしてきたんだから、こっちでも活躍をしてくれるだろうという期待の目線が私に向けられていたのです。
私も東京支店で自信を付けたのでその期待に応えるつもりだったのですが、結果は思ったようにはいきませんでした。
なぜかと言うと、浜松に戻ったことで相手にする企業の規模がかなり小さくなり、逆に仕事がやりづらくなってしまったからです。
大きな案件はこなす自信があったのですが、その当時はまだ小さな案件には慣れておらず、勝手が違いスムーズに業務を進めることができませんでした。
私としては歯がゆい想いをしました。
私の仕事人生の転機となる出来事
ちょうどその頃、たまたまハウスメーカーの営業の人が難しい案件を持ってきました。
どのような案件かというと、これから住宅ローンを借りて家を買おうと思っている人がいるけれども、審査に通らず困っているというものです。
私はそれまで培った融資の知識を活かし、その案件に携わりました。
その結果、どこに申し込んでも通らなかった住宅ローンが、私を介したことで見事に通ったのです。
この出来事をきっかけに、そのハウスメーカーの営業の方は繰り返し難しい案件を持ってくる様になりました。
そして、それをきっかけに私の所には住宅ローンの審査が通らなくて困っている人の相談が数多く寄せられるようになったのです。
住宅ローンの審査が難しい人が集まる銀行
私が勤めていた銀行は、知名度は高くありません。
なので、普通の人はもっと知名度の高い銀行で住宅ローンを申し込みます。
その結果、私の勤めていた銀行に来る案件というのは上記のような『他で通らなかったから来ました』という難しい案件が多く、難易度は高くなります。
その為、
『どうやったら住宅ローンが通るだろうか?』
ということを徹底的に考える必要があります。
実は言うと、住宅ローンの審査は銀行ではやっていません。
銀行は保証会社と呼ばれる会社と繋がっており、住宅ローンの返済が滞ったら保証会社がローンを肩代わりして銀行に払うことになっています。
なので、審査を行うのは保証会社です。
私は、保証会社に審査を通す為にどんな情報が必要か?ということをひたすら考えて書類を作成する日々を送りました。
住宅ローンのことなら誰よりも詳しい存在に
詳しいことはここには書くことはできませんが、保証会社の審査に通るには
『この人は住宅ローンを返済できるだろう』
と思ってもらえるようなプラスの要素を集める必要があります。
住宅ローンの審査に問題なく通る属性の良い方は別ですが、通るか通らないかギリギリの所の人の場合、このプラスの要素が非常に重要になってきます。
それを上手く書類にまとめ、保証会社に提出するという仕事を繰り返し繰り返し行なった結果『住宅ローンについては私より詳しい人はいない』というレベルまで到達することができました。
この点については、私は知名度の低い銀行で仕事ができたことは非常に良かったと考えています。
なぜなら、有名な銀行に勤めていたら簡単に住宅ローンの審査に通る人ばかりが集まるので、住宅ローンに関する深い知識は身に付かなかったはずだからです。
知名度が低く、住宅ローンの審査に通るためには何かしらの努力をしなければいけない顧客が集まる銀行に勤めていたからこそ、今の私があります。
住宅ローンの専門家として独立
この経験をした後、
『もっと幅広い人に金融の知識を広め、困っている人を救いたい!』
と考え、2001年に独立をすることにしました。
それ以来私は、住宅ローンの専門家としてこれから家を買う人や住宅ローンの借り換えのサポートをこれまで3,000件以上行なってきています。
私の専門性を活かして、正しい住宅ローン選びのサポートや住宅ローンにまつわるお金についてのアドバイスを行い1人でも多くの人を救うことができればと考えています。
おかげさまで、今まで数多くの方に
「鴨藤さんに会うことができて良かった!」
という感想を頂くことができています。
これからも変わらず、住宅ローンの専門家として浜松を中心に相談を行なっていきますので、どうぞよろしくお願い致します。